信州大学入学式の式辞が話題になっていますが
同じように東京大学卒業式の式辞も話題になっているというので
東京大学のサイトを覗いてみました
以下です
平成26年度 教養学部学位記伝達式 式辞
皆さん、本日はご卒業おめでとうございます。また、ご列席のご家族の皆様方にも、心よりお祝い申し上げます。今年度の教養学部卒業生は175名で、そのうち女性は50名、留学生が1名です。
全学の式典はすでに午前中、改装されたばかりの安田講堂で挙行されましたので、ここでは教養学部として、あらためて皆さんとともにこの日を慶びたいと思います。
東京大学の卒業式といえば、もう半世紀も前の話になりますが、東京オリンピックが開催された年である1964年の3月、当時の総長であった経済学者の大河内一男先生が語ったとされる有名な言葉が思い出されます。曰く、「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」。
当時、私はちょうど中学校にあがる年頃でしたが、この言葉は新聞やテレビでかなり大きく報道されましたので、鮮明に記憶に残っております。また、子供心 に、さすが東大の総長ともなると気の利いた名言を残すものだと、感心したこともなんとなく覚えております。皆さんの中にも、どこかでこの言葉を耳にしたこ とのある人は少なくないでしょう。
ところが、これはある機会に一度お話ししたことがあるのですけれども、じつはこの発言をめぐっては、いろいろな間違いや誤解が積み重なっているんですね。
まず第一の間違いは、「大河内総長は」という主語にあります。というのも、これは大河内先生自身が考えついた言葉ではなく、19世紀イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの『功利主義論』という論文からの借用だからです。
東大の総長ともあろうものが、他人の文章を無断で剽窃したのか、と思われるかもしれませんが、もちろんそういうわけではありません。式辞の原稿を見てみま すと、そこにはちゃんと、「昔J・S・ミルは『肥った豚になるよりは痩せたソクラテスになりたい』と言ったことがあります」と書かれています。「なれ」と いう命令ではなく「なりたい」という願望になっている点が少し違っていますが、それはともかく、ここでははっきりJ・S・ミルの名前が挙げられていますか ら、これは作法にのっとった正当な「引用」です。ところが、マスコミはまるでこれが大河内総長自身の言葉であるかのように報道してしまった。そして、世間 もそれを信じ込んでそのまま語り継いできたというのが、実情です。
次に第二の間違いですが、これはもっと内容に関わることです。じつは、ジョン・スチュアート・ミル自身は「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」とも 「なりたい」とも、全然言っていないのですね。さきほど題名を挙げた『功利主義論』の日本語訳を見てみますと、こう書いてあります。
満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。
大河内総長の言葉とはだいぶ違いますね。ちなみに、英語の原文はこうなっています。
It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.
この原文を見ると、どうやらさきほど引用した日本語訳は正確なようですから、大河内総長のほうがこれをまったく別の文章に改変してしまったとしか考えられ ません。たぶん漠然と記憶に残っていた言葉を、自分の言いたいことに合わせて適当にアレンジしたのでしょう。その結果、「満足した豚」は食べたいものを食 べたいだけ食べるということで「肥った豚」になり、「不満足なソクラテス」は食べたいものにも安易に手を出さないということで「痩せたソクラテス」になっ たものと推測されます。しかしこれでは原文とまったく違ったニュアンスになりますから、ミルが語った言葉として紹介するのはさすがに問題なのではないか。 下手をすると、これは「資料の恣意的な改竄」と言われても仕方がないケースです。
ところが、間違いはこれだけではないんですね。じつは、大河内総長は卒業式ではこの部分を読み飛ばしてしまって、実際には言っていないのだそうです。原稿 には確かに書き込まれていたのだけれども、あとで自分の記憶違いに気づいて意図的に落としたのか、あるいは単にうっかりしただけなのか、とにかく本番では 省略してしまった。ところがもとの草稿のほうがマスコミに出回って報道されたため、本当は言っていないのに言ったことになってしまった、というのが真相の ようです。これが第三の間違いです。
つまり、「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」という有名な語り伝えには、三つの間違いが含まれているわけです。まず「大河 内総長は」という主語が違うし、目的語になっている「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」というフレーズはミルの言葉のまったく不正確な引用だし、お まけに「言った」という動詞まで事実ではなかった。というわけで、早い話がこの命題は初めから終りまで全部間違いであって、ただの一箇所も真実を含んでい ないのですね。にもかかわらず、この幻のエピソードはまことしやかに語り継がれ、今日では一種の伝説にさえなっているという次第です。
さて、そこで何が言いたいかと申しますと、まず、皆さんが毎日触れている情報、特にネットに流れている雑多な情報は、大半がこの種のものであると思った方 がいいということです。そうした情報の発信者たちも、別に悪意をもって虚偽を流しているわけではなく、ただ無意識のうちに伝言ゲームを反復しているだけな のだと思いますが、善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます。そしてあやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて 世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。そしてその結果、本来作動しなけれ ばならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。ネットの普及につれて、こうした事態が昨今ますます顕著になっているというの が、私の偽らざる実感です。
しかし、こうした悪弊は断ち切らなければなりません。あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自 分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求め られる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
今朝の本郷での卒業式では、学生代表の文学部の学生さんが、答辞の中でたいへんいいことを言っておられました。私も今朝初めて聞いたばかりですから正確に は再現できませんが、おおざっぱに要約すれば、「どんな言葉にも名前が記されている。たとえ匿名の言葉であっても、それを発した人間の名前は刻印されてい る。しかしそれで自己規制したり沈黙したりしてはならない。私たちは自分の名前において言葉を語らなければならない」といった趣旨であったと思います。
まことにその通りで、これから皆さんが語る言葉には、常に名前が刻まれています。それは皆さんが普段名乗っているいわゆる「名前」だけでなく、東京大学と いう名前であり、教養学部という名前でもあります。ですから皆さんは、今後どのような道に進むにせよ、研究においても仕事においても、けっして他者の言葉 をただ受動的に反復するのではなく、健全な批判精神を働かせながらあらゆる情報を疑い、検証し、吟味した上で、東京大学教養学部の卒業生としてみずからの 名前を堂々と名乗り、自分だけの言葉を語っていただきたいと思います。
ところで、もう一度「豚とソクラテス」に戻りますが、私ははじめてこの言葉を聞いたとき、子ども心に、どうして「肥った豚」か「痩せたソクラテス」のどち らかでなければいけないのだろうか、と不思議でなりませんでした。どうせなら「肥ったソクラテス」になればいいじゃないか、と思ったわけです。
そこで大河内総長の式辞原稿をもう一度見てみますと、そこには例の有名なフレーズに続けて「我々は、なろうことなら肥ったソクラテスになりたいのですが」 とも書かれていました。じっさい、ソクラテスであるためには必ず痩せていなければならないという道理はありませんから、この点では私もまったく同意見で す。ただ、ぶくぶくと肥ったソクラテスというのもなんとなくイメージしにくいですね。本日の本郷での卒業式では、この3月末で6年間の任期を終えられる濱 田総長が式辞の最後でとどめの「タフ&グローバル」を口になさいましたが、ここではその濱田総長と、半世紀前の大河内総長に最大限の敬意を表して、2人の 総長の合わせ技で「タフでグローバルなソクラテスになれ」、と皆さんに申し上げておきたいと思います。
さて、かく言う私も、この3月で教養学部長の任期は終了いたします。また、それと同時に、駒場の教員としても退職いたします。いささか恥ずかしげもなく月 並みな言い方をすれば、今日は皆さんの卒業式であると同時に、私自身の卒業式でもあるわけです。人生のひとつの区切りを皆さんと一緒に迎えることができた というのは、何かのご縁かもしれませんが、ともあれこの壇上から式辞を述べるのも、これが最後の機会となりますので、私は大河内総長の「痩せたソクラテ ス」でもなく、濱田総長の「タフでグローバル」でもなく、自分自身が本当に好きな言葉を皆さんに贈って、この式辞を終えたいと思います。
それはドイツの思想家、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくる言葉です。
きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう!
皆さんも、自分自身の燃えさかる炎のなかで、まずは後先考えずに、灰になるまで自分を焼きつくしてください。そしてその後で、灰の中から新しい自分を発見 してください。自分を焼きつくすことができない人間は、新しく生まれ変わることもできません。私くらいの年齢になると、炎に身を投じればそのまま灰になっ て終わりですが、皆さんはまだまだ何度も生まれ変われるはずです。これからどのような道に進むにしても、どうぞ常に自分を燃やし続け、新しい自分と出会い 続けてください。
もちろん、いま私が紹介した言葉が本当にニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくるのかどうか、必ず自分の目で確かめることもけっして忘れないように。もしかすると、これは私が仕掛けた最後の冗談なのかもしれません。
皆さんの前に、輝かしい未来が開けますように。そして皆さんが教養学部で、この駒場の地で培った教養の力、健全な批判精神に裏打ちされた教養の力が、ますます混迷の度を深めつつあるこの世界に、やがて新しい叡智の光をもたらしますように。
万感の思いを込めて、もう一度申し上げます。皆さん、卒業おめでとう。
平成二十七年三月二十五日
・
これに対して
「これ本当に東大の先生が言ったの?」という書き込みがあって
「動画はないのか?」と証拠を求めているわけです
東京大学のサイトにこのように載っているのですが
それでは証拠になりませんかね
メディアに載ったことがらというのは様々な尾ひれがつくのは当然ですので
取材された側が、誤解のないようにということで
メディア側と同時に映像に残しておく、という手段を取るのは
この場合まったく正統なことですよね
上の意見から言えば
でもそれが、地方自治体の長が行うとなぜかバッシングされる
西宮市長がしばらく前に「今後はそうする」と打ち出したことで
一部メディア側が大騒ぎ
それって、同時に自分たちは記事をある程度意図的に編集しますからね
と言ってるも同じだと思うんだけど
もっとも
HISTORY とSTORYは同義ですので
事実は書き手によってすべて違う意味を持つと思っています
・・・こむずかしいことを考えると肩が凝るわい
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